MENU

愛の真実 ガチ恋勢とチョコレート戦争


中村です。

バレンタインですね。
と、会社の同僚から話題を振られました。
独身貴族2名の会話ですから
そこから話が盛り上がるといったことは
なかったのですが、
面白い質問をされまして、
それについてちょっと考えてみようと思います。

バレンタインから何を連想しますか?

という、質問。

チョコレートとか
プレゼントとか
恋人の名前とか

色々あると思います。
雪とか冬に関連したイメージもありますよね。
ちなみに私は何も思い浮かびませんでした。

というのも、
イベント事にあんまり興味がないというのもありますが、
2月生まれなので自分の誕生日の方が印象が強いのと、
どちらかと言えば女性が主役のイメージがあるので
意識したこと自体がないわけです。

そんな私ですが
ブログを始めたということもあり、
バレンタインですとか、イベント事に対して
無関心というのは、意識が低すぎるのではないかと
悔い改めまして、
恋をしている人たちのイベントですから
”愛”についてを深堀してみたいと思います。

目次

恋と愛の違いとは

とりあえず私の考えを書くと、


好きだとか、嫌いだとかを”愛”と呼ぶのではなく
好きとか嫌いは愛の外見で、恋は幻想だと言える。
いずれも愛から派生するものだが、
愛の本質ではない。

愛は刹那的な快楽に置き換えることもできるが、
愛は不変的な感情である。
純粋さから生じる好き嫌いという
刹那的な感情を惹起したりはするけれど、
好き嫌いという一時的な感情で左右されたりはしない。

恋は愛を生み出しはするが、愛そのものではない。
恋の真実は、愛を成熟させたときに実現する。

愛と欲は違う。
愛は愛、欲は欲である。
愛はそれ自体から発する。




なんだか哲学みたいで答えがない。。

「恋の真実は、愛を成熟させたときに実現する。」
のくだりは人類補完計画みたいでちょっとかっこいい。
キール議長に読んでみてほしい。
だが、そんなことはどうでもいい。

一人で考えていても真実にたどり着けそうもなかったので
とりあえず、他の人の意見を聞いてみようと思った。



受け取るのが恋、与えるのが愛

ネットで調べてみると
面白い解釈が出てきました。
面白いというのは煽っているわけではなく、
解釈の仕方が面白かったということです。


恋とは、本能によって生み出された動物的な感情。
愛とは、思いやりや愛着など理性や心情から生まれる感情。
愛は本能ではなく人間的な感情から築くものだからこそ、
「愛は与えるもの」といえる。



なるほど、と唸りました。
恋とは本能だ、というのは私にとっては新しい考え方で、
今まではどちらかというと、愛が本能だと感じていて、
恋はその上にある知性から成り立つものだと考えていたのです。
これを受けて、さらに私なりに解釈すると


恋というのは受動的なもので、他人から愛を与えられたときや、
本能的に好きだと感じたときの胸のざわめきを”恋”と呼び、
愛というのは能動的なもので、知性や理性から生じた
他人に対して湧き上がってくる思いやりや愛着のことを”愛”と呼ぶ。



といった感じでしょうか。
内容は変えずに、ちょっと文章をいじくっただけですが。

さらに考えを深めるためにセルフダメ出しをすると、
理性というと、まるでそこには感情が無いように感じてしまいます。
理性とは「理由をつけて考える能力」ですから、
理屈に対して愛という不定形なイメージを関連付けるのが
私には少し違和感があるように感じるのです。

しかし、これは正しいとか間違っているということではなく、
「答えがない」ということなのかもしれません。

脳を使って思考して行った行動や発言に対して
感情が伴わないかと言われれば、
感情が伴うことはある。と答えますし、

思いやりや愛着とは脳を介さずに
とった行動なのかと言われれば、
感情を脳で処理して行った行動だ。と答える。

”愛”というのは無形のもので
そもそも存在するのか? という疑問すらあります。
行動が愛なのか、考えることが愛なのか
それすらはっきりしていません。

「受け取るのが恋、与えるのが愛」

これが答えなんじゃないかと思うのだが、
上手く説明するための理屈がしっくりこないのです。


そもそも、愛とは何だ???

私も”愛”というものを感じたことがあります。
だから、存在しないということはないと思うのです。

そこで以前調べた「子供が気づいた愛の形」
というのを紹介してみたいと思う。
メモに書いてたのだが、ソースが何だか書いてないので
出典はなんだったか忘れてしまった。
知っている方がいれば教えていただきたい。
ちなみに日本の子供ではなく、海外の子供である。

子供が気づいた愛の形

・誰かがあなたを愛しているとき、あなたの名前を言う仕方が違う。あなたの名前はその人の口に優しいのがわかる。

・愛は、食事に出かけたときにフライドポテトを誰かからもらうんじゃなくて、自分のをほとんど誰かにあげてしまうこと。

・愛とは、疲れたときに、笑顔にしてくれるもの。

・愛は、ママがパパのためにコーヒーを入れてあげて、パパに渡す前にママが一口味見すること。

・愛をより学びたいなら、嫌いな友達を愛することから始めるべき。

・愛とは、お互いのことを知り尽くしていても尚、友達でいられる小さなおばあちゃんとおじいちゃんのようなもの。

・ピアノの発表会の間、ステージの上で怖かった。みんなが私をじっと見ていて、パパは手を振って笑ってた。パパだけがそれをしてくれた。もう怖くなくなった。

・本気でないなら「愛してる」と言うべきではない。でも、本気ならおおいに言うべき。みんな忘れてる。

なんかの名言集かと思うほど達観しているが、
子供が実際に気づいたものらしい。

最後のに至ってはアーセン・ベンゲルさんが子供の頃に残した名言としか思えない。
「フットボールのチームは美しい女性のようだ。そのことを伝えなければ、美しいということを忘れてしまう。」
もう完全にベンゲル。

話が脱線してしまったが、
子供たちの考えを聞いていると、
誰かに何かをするという行動に対して
”愛”を感じ取っているように思う。

友達とずっと仲良くいられることを
”愛”だとする子供もいる。
もちろん、仲良くいられるために
思いやりだとか愛着というのが
重要になってくるのだと想像するのだが、
一緒にいる時間に”愛”を感じる
という捉え方もあることに気づく。

確かに私が好きな人と一緒にいて
愛を感じるのは、時間であったりその場の雰囲気だったりする。
何をするでもなく、一緒にいるのが心地よかったりするのだ。


結局、愛とは何なのかと問われると
「わからない」
と言わざるを得ない。

ただ、自分の考えを述べるのであれば
「自分以外を想像したときに湧き上がってくる感情」
これが”愛”なのではないかと考える。

自己愛というのもあるが、
それは自分を俯瞰で見たときのもの
おままごとのように、一人二役をやっている
ということだと思う。

好きのかたち

ガチ恋という概念がある。
恥ずかしながら私も以前、とある声優さんのガチ恋勢だったことがある。

結果から先に書くと、
その声優さんがご結婚されたことにより
無事、現実へと帰還した。
その時のことを思い出そうとすると、
その人の名前と顔が思い出せない。
という中二設定を作って、心の平穏を保つ。
私は槇原敬之にはなれないと知ったのであった。

強がりすら言えなかった。
いや、最初は言った。

私はその声優さんから違う声優さんに乗り換えたのである。
気を紛らわせるためなのか、自由を持て余したのが淋しかったのか
違う人を好きになって埋め合わせをしたのである。
もちろんそれは道徳や倫理に反している行為ではなく、
むしろ当たり前の行動であった。

それからはその声優さんに関する動画とかコンテンツを漁る毎日が続く。
楽しい日常が送れていたというのも束の間

なんと、その声優さんもご結婚されるというミラクル。
その間たったの3か月の出来事であった。

傷心する私を、m9(^Д^)プギャーみたいな笑い方してくる友人。
なぜあの指をへし折ってやらなかったのかと、
今でも後悔している。


そこで、みなさんにも冷静になって考えていただきたい。(賢者タイム)

人を好きになることが、悪いことと言われたり
禁止されることが、許されると思いますか?

ちなみに私の回答は、
「許されるべきではない」
です。ただし、条件付き。

その条件というのは、
好きを拗らせるというか、極論ですが悪事に走るとかは言語道断で、
好きになるのは自由だし、それ自体は素晴らしいことなのですが、
好きになった後の行いによっては、禁止するケースもあるのかな
というのが私の考えです。

愛というのは相手に与えるものとは言いましたが、
好きになったときに一度考えておきたいことは、
本当に相手を思いやっての行為であるかどうか
ということで、
自身の欲求を満たすための行為なのであれば、
違う方法を考えてみるのがいいかもしれません。

愛とか恋ではなくて違う何かが欲しくて恋愛ごっこをするのは
結構あとあとになって後悔します。
私が言うのもアレなんですが。しくじり先生的なアレです。


私は在宅勤務をしていて、
現在はオフィスに出社することがほとんどないのですが。
最近だと、義理チョコの文化が廃れてると聞きます。
不景気なのに、好きでもない10人の男性に500円のチョコを配ると考えれば
好きな男性に5,000円払いたいと、私なら思います。
女性側が言うのはごもっともだと思いますが、
男性側もありがた迷惑だと感じる人が多いらしく
そこに関しては私ではわからないのですが、勘違いするのがイヤなのでしょうか。

そもそも本命のチョコを渡す文化もあんまり耳にしませんし、
バレンタインというイベント自体が廃れているのかもしれません。
愛とか恋はコンテンツに吸い寄せられている気がします。

とあるコンテンツを扱う会社ではバレンタインにファンの方々から
大量のチョコレートが送られてくるそうです。
2年前に聞いた話なので、今はどうか知りませんが
たぶん今もそうでしょう。

ホワイトデーのお返しはどうするのでしょうか?
流石に返さないのかもしれませんね。

かくいう私もホワイトデーのお返しをしたことがありません。
理由は言うまでもなし。

好きなものにお金を費やすのが悪いとは思いませんが、
ファッションのようになってくるとなんか違う気がします。
自分の方が上だとか、無名の頃から応援してたとか
マウントとかアピール合戦になったり
そこまでくると、何にお金を払っているのか分からないですよね。

自分が本当に好きな人に気持ちを伝える
ということが大事なのかなと思いますので、
今一度、真実の愛について考えてみるのもいいかもしれません。

原初的な愛こそが真実であり、尊いのではないでしょうか。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次