私ぐらいの年代でサブマリン投法といえば
元ロッテの渡辺俊介を思い浮かべる方が多いと思う。
他にも牧田和久、高橋礼などを挙げる人もいるだろう。
里中智や早川あおいと言うとオタクっぽくて良い。
山中浩史とか言うとめちゃくちゃ知ってる感が出てくる。
ただ、思い出そうとしても
そんなに数は挙げられないのではないだろうか。
それもそのはず、アンダースロー(下手投げ)の投手は
100年以上の歴史がある日本プロ野球においても
かなり希少だからだ。
活躍した選手に至っては、20人いるかいないかだろう。
ほとんどは1980年以前の選手で、
1990年生まれの私が知ってるはずもない。
そんな数少ないアンダースロー投手の中でも、
一番有名な選手が1988年に現役を引退した。
阪急ブレーブスがオリックス・ブルーウェーブに生まれ変わったと同時に、
山田久志が現役を退いたのである。
私が知っている山田久志は選手としてではなく、
解説者、投手コーチ、監督としての山田久志だ。
始めて知ったのは1996年の日本シリーズだろう。
巨人対オリックスという注目の対決。
テレビを観ながら父親が
「この人は昔サブマリン投法で有名だった人だよ」
と教えてくれたのを覚えている。
その後、中日の監督に就任された際は、
ニュースでの扱いが酷く、
あまり良いイメージがない。
つい最近までは、山田久志に注目することが
あまりなかった。
では、なぜ今回記事にしようとしたのかと言うと、
投手コーチとして、指導者として注目し始めたからである。
選手の育成論や投手の起用方法などを聞いて、
とにかく選手想いな、血の通った考え方を持っている方だと知った。
選手の特徴を問われると、「○○は、」と選手の性格から語り始める。
育てる選手の性質を理解し、その選手に合わせた接し方をしていて、
当時のオリックスの選手たちは、みんな山田久志を慕っていた。
これほどまでに求心力のあるコーチは珍しいと感じた。
以前の私は山田久志に対し、昭和の人というイメージを持っていた。
だから、あまり好きではなかったのだが、
義理堅いというのはそうだが、状況によって変化できる人なんだと気づいた。
私の人を見る目が狂っていたとしか言いようがない。
これからは、人を見る目というのを山田久志から学んでいきたい。
ちなみに、アンダースローは日本発祥の投げ方である。
概要
山田久志 1948年7月29日生まれ 秋田県出身
アンダースローの投手として数々の記録を持っている
史上最高のサブマリン。
元々はサイドスローで投げていたが、
社会人になって投法をアンダースローに変えた。
1968年に阪急からドラフト1位で指名を受ける。
しかし、当時ケガをしていた山田は
すぐには入団をせず、リハビリをすることにした。
その1年後、阪急と正式契約を結ぶ。
山田の実直な対応を評価して
契約金を本来提示する額よりも上積みして提示された。
入団して2年間は苦しい成績だったが、
それ以降はめきめきと力を発揮する。
1975年にガクッと成績を落とすが
先輩である足立光宏から
山田の代名詞とも言える変化球、シンカーを学び復活。
17年連続二桁勝利、12年連続開幕投手
アンダースロー投手としては最多となる通算284勝など
選手として輝かしい成績を残し引退した。
その後はテレビ中継での解説や、スポーツ紙での評論などを経て
1994年に阪急ブレーブスの後身である
オリックス・ブルーウェーブの投手コーチに就任する。
監督と投手コーチは仲が悪い方が上手くいく。という持論を展開し、
監督側ではなく、選手側に立つスタイルで若い投手陣を育成し起用した。
野田浩司、星野伸之、長谷川滋利、佐藤義則、と強力な先発陣。
平井正史、野村貴仁、鈴木平、と個性のあるリリーフ陣を機能させ、
1995年には阪神淡路大震災で被害を受けた人々を勇気付ける初優勝。
1996年には2年続けてのリーグ優勝と巨人を倒して初の日本一に貢献。
日本シリーズのような短期決戦では、先に使える投手を探し当てた方が勝つ。
と監督に直訴し、投手の個性を生かした起用法が日本一を手繰り寄せた。
1999年には中日ドラゴンズの投手コーチに就任。
巨人のオーナーだった渡邉恒雄が投手コーチは山田が適任という意向を示し、
チームの監督である長嶋茂雄経由で巨人で投手コーチをやらないか、
と破格の条件で打診されたが、家庭の事情を理由に断る。
しかし、その直後に中日の監督だった星野仙一に口説き落とされ入閣した。
その年入団したルーキーの岩瀬仁紀をリーグ屈指の中継ぎに育て上げ、
中日はリーグ優勝を飾る。
2002年は勇退した星野仙一の意向で山田が中日の監督を務めることになる。
外様監督だが、星野が球団関係者との仲を取り持つという約束での人事だった。
がしかし、その星野は阪神の監督に電撃就任。中日から出て行ってしまう。
おまけに参謀役の2軍監督、島野育夫も引き抜かれる散々な始末。
後ろ盾を失ったその後はチーム内外から山田に対する不満が噴出した。
主力選手たちが相次いで他チームへ移籍した影響もあり、
2003年途中に成績不振を理由に解任される。
ちなみに、解任時の順位は5位と低迷しているように見えるが、
勝率はほぼ5割と悪い成績ではない。2003年の最終的な順位は2位だった。
優勝したのは星野阪神。
ただ、中日監督時代の功績は大きく、
海外移籍に失敗した谷繫元信をFAで獲得。
「名古屋って、たぶん君が思っているように難しいところだよ。
だけど、うまく街やチームに溶け込んだら皆が君を認めてくれる、
これは他のチームにはないぞ」
と挑発し、気の強い谷繫の挑戦者魂に火を着けた。
同時に正捕手で地元ファンからも愛されていた中村武志を横浜に放出。
勇気ある血の入れ替えは、若手投手たちの成長を加速させた。
怪我に悩む立浪和義をサードに起用し、選手生命を伸ばした。
代わりに内外野の便利屋扱いだった井端弘和と荒木雅博を二遊間に据え、
サードの福留孝介を外野にコンバートする。
オリックスで燻っていた元教え子の平井正史を山崎武司との交換トレードで獲得。
リリーフは、岩瀬仁紀、落合英二、平井正史、大塚晶則と盤石になり、
退任後に発足した落合政権による8年間の中日黄金時代と、
今日に至るまで投手王国と言われ続けるドラゴンズ投手陣の礎を築いた。
2006年には野球殿堂入り。
記念のパーティーには、オリックス時代の教え子であるイチローや田口壮も出席した。
2009年にはWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)
日本代表の投手コーチに就任。
不振だったダルビッシュ有を抑えに配置転換するなど、
2大会連続世界一に貢献した。
イチローとチームメンバーとの橋渡し役としても活躍した。
名言集
- 一番最後までユニフォームを着ているヤツが一番なのさ
- オレは記録やユニフォームに未練があるんじゃない。野球そのものに未練があるんだ
- いい選手で終わったらだめ。プロなんだから上手くて当たり前。プロは見せるものだから、お客さんが喜んでくれるプレーをしなきゃいけない。福本さんだったら『いつ走るんだろう』、王さんだったら『いつホームラン打つんだろう』、イチローだったら『必ずヒット打つんだろうな』と、ファンは楽しみにする
- 人のフォームのこと、ガタガタいわれる筋合いはねえよな
- 栄光に近道なし
学んだこと
中間管理職になると、どうしても上司側のスタンスを取ってしまう、
だから、部下がついてきてくれない。
そういったケースがあると思う。私は今の職場で同様の失敗を犯した。
会社のシステムや利益を優先したり、上司の意向を優先したり
現場の意見を無視してしまったのだ。
それ以降は部下からの信頼が薄れ、相手にされなくなった。
上のやり方を尊重するのは、別に悪いことではないと思うが、
作業をするのは現場で働く人たちなのだから
その人たちに対して誠意あるスタンスを取るべきだったと反省している。
下の人間は愚痴ばかり、と対立せずに上手く立ち回るのが
中間管理職の務めだと山田久志を見て感じた。
それについて上司から釘を刺されても
「自分のやり方なんだ、ガタガタいわれる筋合いはねえ」
と言い返してやるだけだ。
自分の仕事だけに集中せず、自分より下の立場の人間に
視線を配ってあげるだけでも良いのだろう。
私自身も上司からまったく見てもらえない職場は嫌だ。
評価されているのかがわからないし、将来性を感じない。
一人ひとりの個性を把握し、話し掛けるだけでも
職場の雰囲気は良い方向に変わってくる。
組織は若い力を起用しないと、老朽化してしまうのは間違いない。
自分より若い人たちが、モチベーションを上げられる環境を作る、
それが良いリーダーの条件ではないだろうか。
今年優勝したオリックスの中島聡監督は
山田久志とは阪急時代の後輩であり、コーチ時代の教え子という間柄。
若手を積極的に起用してブレイクさせた手腕は、
山田久志の影響があるのかもしれない。
若いチームを見ているとワクワクする。
山田久志は中日でのことを失敗だと感じているのだろうか。
私は山田久志を教訓に、今の職場の骨になりたいと考えている。
山田久志は現在、中日ドラゴンズ関係のテレビやラジオに出演している。
酷い仕打ちを受けたとはいえ、縁のある球団。
住んだ土地に根付き、花を咲かせる。
義理人情に厚いあっぱれなリーダーである。惚れた。
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