中村です。
最近は責任、責任とうるさい世の中になったなあ、と感じることが多々あります。
私の職場では自社の商品に対するお問い合わせがメールで届くので中身を必ず確認するのですが、内容は熟読する必要もないことが大半で、
馬事雑言が90%、改善要望が9%、励ましの言葉が0.8%、本気で商品を愛してくださっているガチのお問い合わせが0.2%
ぐらいの割合で1日100通ぐらい届きます。
ですので、九割のメールは対応不要となるのですが、いちおう参考になるものはないかと目を通しはするわけです。
そこで一番多い内容というのが「責任を取れ」というもので、ほとんどがお客様の責任転嫁だったりします。
仕事だから諦めているというわけではなく、そういう言われ方をするのも仕方がないとは思います。
なにせ作っている自分たちでさえ完璧だと思える商品を作れたことがないのですから、自信をもって売り出してはいますが不満の声があがるのも納得というジレンマがあるのです。
誰であっても不満を抱かせない、非の打ち所がない最高の商品を目指して開発はするのですが、それはかなり難しい目標なのです。
最高を目指すという点でいえば、サービス業の方がハードルが高いでしょう。
このあいだあった別の話で、パソコン作業のために近距離用の単焦点メガネを買ったのですが、いざ使ってみると距離感覚がずれてしまってマウスを掴むことすら難しいどころか、2時間もすると酔ってしまったような眩暈がする状況になってしまったので、普通の遠近両用のレンズに交換をしに翌日メガネ屋さんに向かいました。
そこで理由を説明し、レンズを交換してほしいという旨を伝えたのですが、メガネ屋さんは「こちらが測定した数値は間違っていないです」と返答するだけでレンズの交換に応じてくれません。
クレームを恐れているのか、お店のルールでそう言えと決められているのか、いまいち会話がかみ合わず。仕方ないので「レンズ交換以外で改善策は何かないか」と質問したところ、レンズと目との距離を近づければ焦点は合いやすくなるとのことだったので試してみると、妥協できるレベルにまで改善できたのでそこで話は終了したのですが、
レンズ交換ぐらいしてくれたっていいじゃないか!というのが私の本音で、結局なぜレンズ交換ができなかったのかがわからないまま帰ってしまった私が悪いのですが、おそらくこれは責任のあり方に問題があったのだろうと考えました。
メガネ屋さんは、レンズ交換をする=自分たちの商品に欠陥があったと認める というのが頭の中にあったんだろうと推察します。
対して私は、レンズを交換してほしいが、メガネ屋さんの責任を担保して折衷案で問題を解決した。
私の視点で考えると本来であれば、メガネ屋さんに責任があったはずです。
ですが、話をしているあいだにお客さんの不満を改善するための”思考”の責任を私が取ってしまい、私の望んでいた結果には至らなかった。
こんなメガネ屋になんて二度と行くか! とまではいきませんが、そのときの店員さんには一切絡まないでしょう。
今回はその責任とは、なぜ人から人へ移るのかを考えたいと思います。
前回の記事に関連した内容となっておりますので、そちらも是非ご覧ください。
- 自分の思考、感情、行動の責任を担うことができない
- 自分の思考、感情、行動の責任が自分以外にある
上記二つの状況において、他者の思考、感情、行動の責任を取ろうとしてしまう。
つまり、どういうことかと言うことを、
朝、自分で起きられない子供と、その子を起こす親を例に考えてみましょう。
1.子供は起こしてもらうことで、自分で起きるという”行動”の責任を放棄している。
2.子供は時間に起きずに遅刻した場合、その責任が起こしてくれない親にあると考えている。
それに対して親は、子供がちゃんと起きずに遅刻してしまった場合、親である自分の責任だと考えてしまう。
3.子供は自分が起きないことで親が怒ることは当然だと受け入れている。親の”感情”の責任を取っている。
それに対して親は、子供がなかなか起きないイライラから「早く起きなさい」と怒鳴るなど、自分の”感情”を子供のせいにしている。
4.子供は起きられるようになるためのことを自分では考えていない。あるいは親が考えるべきだとして”思考”を放棄している。
それに対して親は、どうすれば子供が起きられるようになるか子供以上に考え、子供の”思考”の責任も取ろうとしている。
5.子供は自分のせいで親が余計な頭を使っていることを受け入れ、親の”思考”の責任を取っている。
それに対して親は「子供のせいで余計な頭を使わされている」と、自分の”思考”の責任を子供に押し付けている。
子供を起こす親の例を考えてみると、これぐらいのパターンがあるかと思います。
ここで重要なことは、自分の責任を放棄することと、他者の責任を肩代わりすることは、複雑に絡み合っているということです。
互いが自立していないこのような関係は、成人していたとしても多くの方が持っている関係性でしょう。
解決するのは簡単で、お互いが自立して自分の責任は自分が取ってしまえばいいわけですから、他人のことは気にしないでいいのです。
とはいえ、共存していると考え方が違ってくることもよくあることで、自分だけ解決できていればいいという問題ではないのが厄介ではあります。
我慢する、というのも選択肢としてはありますし、相手に関係なく自己完結できてしまうので安易にやってしまいがちですが、問題が解決しなかったときに鬱憤が溜まらなければという条件つきです。大体は我慢の限界を迎えてしまう、というのがオチでしょうから選択肢としての優先順位は低いでしょう。
それであれば、しっかりと腹を割って話し合う方が後腐れなく問題が収束する方向へ向かうかと思います。
「優しい人は損をする」なんて巷では言われてますが、責任を背負ってくれている人に向かってそんなことを言うのはどうなのかと考えることがあったりします。
ビジネスは責任の押し付け合いみたいな側面もありますが、普段の生活では助け合いが重要なのだと思うわけです。
私の場合、メガネ屋さんの責任を担保はしましたが、32歳にして店員さんに「マニュアル通りに接客してんのか? こういう時はこうすんだよ」的な老害ムーブをかましてましたので、決して優しいとは言えないのですが、(メガネ屋さん、ごめんなさい)
優しい人がいれば、その人には優しく接してあげられる社会になってほしいなと願っております。
次回は自分の心の中にいる子供の話を書いてみようかと思います。
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