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無意識の三大要素 覚えたいことを覚える方法 その②

中村です。

前回の記事の続きというか補足というか、無意識と対人関係のあり方について書いていきたいと思います。

ここで書くのもまた若かりし頃の自分が悩んでいたこと、わからなかったことをベースに当時のメモに記していたことをそのまま転載していきます。

なのでお粗末な部分であったり、見る人によっては正しくないように思える部分があったりするかもしれませんが、その時はページ下部のコメント欄よりお問い合わせください。今後、内容を修正した最新版「無意識の三大要素」を執筆する機会があれば、そちらに反映していきたいと考えております。

目次

原初的秩序意識と上下関係意識

対人関係を意識するときの無意識の作用のこと。

人は他人と接するときに、その人は自分の”上位者”なのか”下位者”なのか”フラットな関係”なのかを常に無意識のうちに感じ取る習性があり、上位者には従おうとし、下位者には従わせようとする性質がある。

しかし、それは集団で生活するという性質から、上か下かという規定は第三者の意識が関係してくる。どういうことかといえば周りが自分の相手方を上位者とみなし、自分を下位者とみなせば、その時点で殆どの場合そのことを受け入れて当然の前提とする。逆もまた同じで、第三者が相手方と比較して自分を上位者だと認識していれば上下関係というのは自然と自分が上というようになる。

具体的にそのことを指摘されるだけでなく相手方を上位者と尊う人間が多く、自分を見下す人間が多ければほぼ自動的に相手が上位者、自分が会社と無意識に感じ取る。必ずしも瞬間的に適切にそう感じ取れるとはかぎらず、周りからの指摘によりそうなることもある。

ただ、多くの場合上位者になるか下位者になるかは社会システム上のものであり、言い換えれば年長者であったり肩書などにより上下関係が決定したり、人が生まれ持ったキャラによって上位者となりやすい者、下位者となりやすい者も存在する。

肩書などそういったものがない関係同士だと第三者の意見が反映されやすかったり、生まれ持ったキャラによって無意識のうちに関係性ができあがることがよくある。それこそ上位者と認知してほしいがあまり無意識に偉そうに振舞ってみたりする人間もいる。第三者を利用して自分を上位者に仕立て上げようと画策する人間も同様。それが”派閥意識”の素になったりするのだが、集団での行動、学校や会社内での派閥というのは一時的には成果を出しやすくはなるが、結果的に失敗に終わることが多いので危険である。

無意識の三大要素、まとめ

無意識の三大要素で書かれた方法だと、人の行動原理や概念の把握、あるいはノウハウの習得までその全てに関わることは”第三者がどう感じるか”ということになる。そこに加えて”自己の感受性”が関わる。何をすべきか、何をしたらいけないのか、といったことから他人の評価にいたるまで全て。

このメモを書いたのが2014年7月27日だったらしいが、2022年現在と比べても日本人の行動規範はあまり変わっていないように思う。

本来、規範というものは無意識に体得されるのだが、それに加えて宗教をベースにした体系だった規範を言葉により教え込まれる。それまでの自己の無意識による規範意識を言葉の俎上に載せて再検討を加え再把握される。それはノウハウもそうだし、概念もそう。そのために学問があると言ってもいい。

しかし、それが無いとすれば周りの人間がどう思うかしか基準がない。となると、周りの人間の”雑音”(自分のしたことや話したことに対する感情的なリアクション)だけが行動の基準になるはずである。なので、批判や炎上に非常に敏感になるのではないだろうか。それゆえに、常にそれを気にして自己の行動を規制するような人間になる。

上位者、下位者の意識というのは上位者に従うのを当たり前だと感じはするものの、上位者は下位者を保護し導く存在だと感じ取る部分もある。だから、そうでないと感じる上位者には非常に強く反発する。具体的にどういった失敗をしたかとか、どういった行動がまずかったというものではなく、保護し導く意思が感じられないとなれば途端に支持を失うし、反発もする。

日本人は昔から”しつけ”という名目で先ほど記載したような無意識の三大要素による教育を施すことにより成長を促す。すると、子どもの頃から自然と”下位者”として適切に振舞える術を身につけることになる。これは当然で、上流階級と一般庶民というものが固定的になる原因でもある。上流階級は育てられ方がそうではないから、上位者として適切に振舞えるような教育が施されている。

では、下位者が上位者として振舞えるように教育することはできないのかと考えてみると、できるし、やらなくてもいいとも思える。

諸外国の教育ではユニークであることが尊重されたり自分の気持ちをしっかりと言葉にして伝えることが重んじられている印象がある。特に議論をすることに対しては日本人と比較すると抵抗感がない。

自分の意見を述べることを圧をかける行為だと誤認しているのではないかと感じるときがある。意見を述べない上位者というのは存在しないので、自動的に下位者として見られがちだし、派閥を好む人間からすれば自分がリーダーになれる絶好の機会だといえる。

簡単に言ってしまえば自己表現ができるようになり、周りからも尊敬される人材になれば自然と上位者としての振舞いもできるようになるのだが、その日本人らしい下位者としての振舞いというのも個性と呼べるし、諸外国からすれば日本人のアイデンティティと感じるかもしれない。

結局は、自分が成りたいと思った自分になればいいと思う。日本人らしい曖昧な答えかもしれないが、周りの人たちの良いと思ったところを真似して尊敬できる人、成功している人を見つけてロールモデルを学ぶことが社会人としての正攻法だと考える。

いざ社会に出ると勉強不足だったと後悔することが沢山ある。私はもう十年以上経ったが、いまだにわからないことのほうが多い。

職場の新卒の方々には私がポンコツおじさんに見えてしまっているかもしれないが、新卒もおじさんも、平社員であれば立ち位置は一緒。これから頑張ろうとしている人が少しでも良いスタートが切れればと「無意識の三大要素」について書いてみた次第である。

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