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庶民がモンスターに変貌するとき


中村です。

”怪物”というと怖い印象がありますよね。
でも、褒め言葉としても使われたりもします。

最近は”怪物”と呼ばれる人が出てこなくなったという印象がありますが、
音楽でいえば日本だと宇多田ヒカルさんから次の怪物は出てきていない認識です。
King Gnuの常田大希さんとかは圧倒的な雰囲気がありますけど、
世間的にはそこまで騒がれていないように感じます。

野球だと大谷翔平選手が怪物っぷりを野球の本場アメリカで発揮していますが、
二刀流というのもあってか、通算の成績を見るとちょっと物足りない気がします。
比較になるのが松井秀喜さんやイチローさんやベーブ・ルースですから。
とはいえ大谷翔平選手はまだまだ若く、これからの選手なので、
通算成績とかを話に持ち上げるのは時期尚早という感じではありますかね。


怪物にも、様々な姿かたちがあります。
近年だと”モンスター”と呼ばれる人たちは、
社会的にも危なっかしい、人々の生活を壊す存在として認知されている印象です。

モンスターペアレントというと私なんかは懐かしい感じがしますが、
それもそのはず、1990年後半あたりから問題視されていたようで、
学校や教育委員会に対して不当な要求や苦情を繰り返す保護者が現れ、
2006年付近に”モンスターペアレント”という呼称が生まれたそうです。

それ以降は”モンスター社員”とか”モンスタークレーマー”とか
理不尽な請求や馬事雑言を吐いて歩き回る人たちをまとめて
”モンスター”と呼ぶ風潮が出来上がったような気がします。

ファッションモンスター”は悪いものではないと思いますが、
「モンスター」という言葉の強さと世間的なイメージを逆手に取った
反骨心のあるネーミングが面白いんだと思います。


私は”怪物”を欲してはいますが、”モンスター”は不要だと考えています。
常識だったり既成概念をぶち壊すという意味では同じように感じますが、
個人の利益のために社会を変えるというのは、あんまり納得できませんし、
ただ気持ちよくなりたいから暴言を吐くというのもやめてほしい。
「お客様は神様じゃないのか」と言われても、お前が神様じゃないのは間違いない。

社会が自由になって個人が尊重されるようになったからといって、
個人のエゴにしか目を向けないというのは違う気がします。

ただ私は、個人が悪いと糾弾したいのではなく、
時代の流れが悪かったんだろうと考えていますし、
それが一般的な捉え方なんだと思います。

幼少期にヤンキー漫画が流行っていた時代の親が、
教師や社会に対して嫌なイメージを持っているのは当然でしょうし、
大人になってからも教師という存在を下に見るのも理屈はわかります。
ただただ既存の教育のシステムをぶっ壊したはいいものの、
皆が良いと思えるシステムに作り直すことができないのが難点なだけで、
気持ちはわからんでもないわけです。


最近はモンスターを排除しようという流れができていると思います。
それに関しては私も同意なのですが、排除の仕方が悪くて
だいたいはまた個人が騒ぐことで解決しようとしていることが多く、
モンスターを排除するためのモンスターが現れた感じです。

また、その流れが勢いを増して関係のない所に飛び火している感もあります。

どういうことかというと、
自身の正義感に従い、悪いことをした他人を非難するのが当たり前
という風潮が出来上がってしまったと思うのです。

人は間違いを起こすことがあると思います。
過ちを犯したら罪を問われて罰を受けるというのも既成概念としてあります。
が、刑罰を与えるのは個人ではなく、法が罰を与えるわけです。
同じ正義感を持った民衆が徒党を組んで個人や組織を罰するなんて
当たり前にはしてほしくないです。

最近よく目にする芸能人の不倫だとか薬物がどうだとか、
有名人の失言を持ち上げたりだとか、”炎上”というのが普通になっています。

昨日はVtuberの潤羽るしあさんを事務所が契約解除したとネットニュースで見ました。
そんなことよりもっと注目すべきニュースがあるだろ、と思うのですが、
炎上というか、言い方は古いですがお祭り騒ぎの方に注目が集まっています。

ネットとかSNSの発達によって誰でも発言できるからこそ
炎上というのは起こるのだと思いますし、
私自身も現在進行形でそれについてネットで語っていますから
その騒動の輪の中に入っているわけです。


Twitterのつぶやきやネット記事にコメントをするときに、
なにか会話していると錯覚するときがあります。
そこでのカキコミは論文などではないし、
大概はしょうもないことを書くわけです。

他人が書いたそういうのを見て私自身も
「上から目線だ」とか「イキってる」と感じたことがあります。
だから、ネットでのやり取りというのは
書き言葉での論争というより会話のように感じるのかもしれません。

ネットでのやり取りには文字情報しかなく
話している相手の人となりはわかりません。

以前は芸能人のブログが毎日のように炎上していた気がしますが、
それは匿名でのコメントだったりが原因になっていたと考えています。

というのも、人には普段使っているしゃべり口調というものがあって、
それをそのまま文字にすると随分ぶっきらぼうに見えたりします。
偉そうだったり、横柄だったり、卑屈だったり、ネガティブに感じるからです。

文字だけで会話をするのはしっかりとした規則がない限り限界があるのだと思います。

リモートワークをしていて、仕事でも文章でのやり取りが増えたのですが
非言語でのコミュニケーション(表情、仕草、声の抑揚などの文字以外の情報)
がないと、正確に情報を伝えられない問題が多発しました。

後輩に「日報の入力をお願いします」とDMを送ったら
LINEで「煽ってんすか?」と返ってきたときはブチ切れそうでした。
前後の文脈があるとはいえ、流石にそりゃあ無いだろと。。

別に普通の言葉遣いであっても、文字だけの会話で非言語による情報の補足がないと
いつも通りに話し掛けているだけなのに、攻撃的に感じたりすることもあるようです。



自分にとって見ず知らずの人々が集まる場所なら、
礼儀正しく振る舞うでしょうし、口調だって改めるでしょうが、
自分が慣れ親しんだ場所だとつい普段のしゃべり口調が出てしまいます。

初対面の人には敬語で話すのが一般的だと思いますが、
相手が”自分が興味を持っている好きな有名人”だったらどうでしょう。
実際に対面しているわけではなく、その有名人のブログにカキコミをするなら
どのような調子で文章を書くでしょうか。

相手の人となりを知っていて親しみを感じているからこそ
つい話し口調になってしまったり、本音というか聞きづらいことを聞いてしまったり
配慮に欠けてしまうこともあると思います。
しかし、受け取る側の有名人は書き込んだ人間の顔や名前すら知らないのですから、
知らない人に自分の内面をさらけ出すなんて嫌だし、
書き言葉を見て、非難されたとか、DISられたと感じてもおかしくはないです。

有名人と近い距離に行けたり、気軽に交流できるのは良いことなのでしょうが、
そうなったらもう有名人という括りではなく近所に住む庶民ですから
有名税なんてないんだと考えた方がいいのでしょう。


はたまた、好きでもない有名人を叩く人もいます。
それこそ正義感で非難したり、トレンドだから乗っかってみたり
モンスターを排除するというよりは
火に油を注ぐ人たちですが、実は私の身近にもそういう人がいます。

その人は噂好きというか、スキャンダルが好きなのです。
かと言って群れをなして個人を叩くのはどうなんだ、と
説教じみたことを言ってみたりするのですが、
大体返ってくる言葉は決まっていて

よく聞く意見は、
「その有名人は好きでも嫌いでもないけど悪いことをしているなら非難されて当然」
というもの。
暗に有名人を叩くのは悪いことではない、と言っているのでしょうか。
善悪の平衡感覚がバグっているのかもしれません。

有名人が絶滅して一般人にその矛先が向けられたとしたら
たぶんそんな能天気なことは言ってられないだろうとは思うのですが、
有名人がこの世からいなくなることはあり得ないでしょう。
ですが、一般人にも矛先が向けられることはあります。

野球ではホームランボールをキャッチした少年がネットで叩かれ
Twitterで炎上、「クソガキ」がトレンド入りする事件がありました。

面白く感じるのはネット上での出来事だからで、
目の前で子供が袋叩きにされていたとしたら笑えません。


人がモンスターに変貌するときというのは、
目の前の現実と、自分が想定していた未来が乖離したときのことで、
つまりは”頭の中で想像した現実”というイメージと
”感覚的に頭の中に入ってくる事実”との整合性がとれなくなったときに、
モンスターになる可能性があるのだと考えています。

庶民がモンスターに変貌し、群れをなして攻撃するのは、
象徴として信じていたものや、崇高なもの、美しいものではないでしょうか。
情熱を注いできたものが崩れたとき徒党を組んで無いものにするのだと思います。

私たちが類似を発見することで新しいイメージを作るとすれば、
同じではないもの(差異)を排除して、綺麗なイメージを保持しようとする働きが
モンスターを生む種なのかもしれない。

ここでいう類似とは想像力の素のことで、
差異とは判断力の素のことです。
丁度エドマンド・バークのことを調べていたので
合ってるかわかりませんが、言葉を引用させていただきました。
解釈を間違えていたらすみません。。

それを踏まえてモンスターというのは
判断することを放棄している人たちと言い換えることもできるかもしれません。




長々と批判的なことを書きましたが、
何が悪いかと言えば時代が悪いとしか言えませんし、
記事の内容も私の個人的な感想を述べているだけです。
そういうルールや常識があるという話ではありません。

むしろそういう規則がない、答えがないのを
隠れ蓑にしているモンスター達もいるのでしょうから、
ルールとか良識を自分たちで作っていかなければいけない
という、考えを書かせていただきました。

一般市民が互いを攻撃するような状況だと、先に攻撃した方が大抵は勝ちますから、
目の前にいる人を無差別に攻撃するようになるでしょう。
ネットはすでにそんな感じになっている気がします。
利己的なのも他人を攻撃するのも人間であれば自然なことですが、
相手が動かなくなるまで叩くのは異常です。

不平、不満があるのなら小説を書くのをおすすめします。
元々小説とは庶民の日常の出来事に関する意見や主張などを書くためのもので、
君子が国家や政治に対する志を書いたものを”大説”と言います。
個人の思想や哲学などは小説と呼ばれるのが一般的です。

古い媒体ではありますが、今後も続いていくものだと思いますし、
表現の自由がある程度は確保されているので、書いていて楽しいですよ。
だったらお前もブログじゃなくて小説を書けって話ですが。。


私は日本人で、平和というと日本的な宗教とか文化から想起される
”自然との調和”が根底にあるのですが、
ニュースを見ていると、とても殺伐とした社会を作り上げている
集団の一員が私なんだと思い知らされます。

昨日はロシアがウクライナへ軍事侵攻したり、
私が住んでいる世界というのは平和ではないんだと痛感しました。

「平和維持」の攻撃とは何なのか。
安全保障体制とか歴史とか政治とかそれぞれの言い分があるにしろ、
人命を粗末に扱うことは許されるべきではないというのが個人的な意見です。

かっこつけではなく、自分たちの持っている力というのを何に使うべきかを
再確認しなければいけないし、対岸の火事だとは思うべきではないのでしょう。

見たくないものを見てしまったというか、何とも憂鬱な日でした。
平和というものは訪れないのではないかと、将来が不安で仕方ないです。
何を目標として社会とか国家というのがあるのかわからなくなります。
目的のためなら何でもありというのは勝手過ぎます。

つまらないことで言い争っているほど安全ではなくなっていくのかもしれません。
そんな時にニュースに便乗して
こんなしょうもないブログ記事を書いているのですから、
私自身もモンスターに豹変しているのかもしれません。

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