中村です。
私は子供の頃、自分のことを天才だと思っていました。
なぜそう思っていたのかというと
比較対象として、父、母、姉であったり
小学校のクラスメイトがいて、
学校の先生もいる。
大体300~400人ぐらいの人たちの中で
自分にしかできないことであったり、
自分しか知らない知識を持っていると感じていたからです。
スポーツだったり勉強だったり、
何か始めると自分が一番習得するのが早い。
他の人から褒められる。
だから、自分は天才なんだろう、
と思っていました。
いま考えると、そんなのは当たり前で
子供の頃はみんな天才なんだと思うのです。
子供の頃の好奇心であったり、集中力、発想力というのは
30歳を超えた今の自分には真似できない才能です。
昔からゲームが好きで、いろいろなタイトルをプレイしていますが、
今はネットで調べた強い動きを真似したり、
決まった型を習得するのが普通になっています。
非常に大人っぽいというか、社会人らしい習得方法だと思います。
これが最適解だと決まっているのであれば、自分で考える必要が無いというか
「車輪の再発明」をするのは時間の無駄だと考えるようになった結果だと感じています。
しかし、子供の頃の私は全然違うプレイングをしていて、
そもそもネットが発達していない時代だったというのもありますが
自分で企画、検証、実行、再検証をしてみて、
そのゲームの攻略法を構築していたのです。
紙とペンすら使いません、100時間以上プレイした内容を記憶して
全部自分の頭の中でロールプレイして、翌日検証する。
その時にプレイしていた内容は断片的ではありますが、今でも覚えています。
久しぶりにそのゲームをやると、大量の検証結果が頭の中から掘り起こされます。
何の前情報も無しに、一人で成功法を見つけていたのです。
今それをやれ、と言われると非常に大変です。
すごい労力のように感じます。
子供の頃は、それをいとも容易くやっていたのです。
何でそれができなくなってしまったのか、
老化によって集中力や発想力が衰えてしまったのか。
答えは単純で、教育されたからだと思うのです。
「こうしなさい」「ああしなさい」と、
人に言われたことを素直に聞いていた結果、才能が枯れていったのだと考えています。
要するに一から考えるのを放棄した代償として
自分の頭で考える能力が衰えていったと言えます。
素直なことはとても良いことだと思いますが、
大人になっても天才だと言われる人たちとは意識の持ちようが違っていると感じていて、
本物の天才たちは取捨選択ができているように見えます。
本当に必要な情報なのかどうか、
嘘か本当かを判断したり、検証して違うものは違うと否定する能力が
決定的に自分とは違うと感じます。
「子供の頃、自分を天才だと思っていた」
そう言いましたが、
当時のクラスメイトで、今でも天才的な人が
私よりも物事の習得が遅かったときに何をしていたのかを思い出すと、
私の才能を素直に認めて、ノウハウを聞きにきていました。
「すごいね、それどうやってやるの?」
というセリフは天才以外からは聞いたことがありません。
そんなことないだろ、と思われるかもしれませんが、
そのセリフを言えた人たちは、習得が早かった私より
後々必ず結果を残していました。
そのセリフを言って私より成績を残せなかった人たちは
すぐ違うことを始めた人たちです。
野球じゃなくサッカーを始めたとかそういう人たちです。
私の経験上、物事の習得が早い遅いはあんまり考えず、
5年後、10年後を踏まえて天才は物事を習得しているのだと思います。
頭のいい人は未来を見ているのです。
凡人は現在しか考えられません。
私がその中のひとりです。
正確には20代前半までは凡人の考え方をしていました。
自分より優れている人がいると、悔しくなって
何とかそいつに勝とうとして自分の頭で勝つ方法を考えていました。
しかし、転職をしてちょっとレベルの高い企業に就職をして
職場の中で自分が一番年下という立場ではなくなったときに、
自分よりも若くて知識があって仕事もできる、学歴も立派みたいな人たちが
私のような凡人にアドバイスを求めてくるのを見て、
勝った負けたというよりは、勉強するという意識に変わったのです。
自分よりも有望で才能がある後輩が
「中村さん、それどうやってやるんですか?」
と聞きに来るのです。
彼らは優秀なので優れていると感じたものは
選り好みせず貪欲に吸収しようとします。
そこで学んだことを咀嚼し、良し悪しを判別して自分のものにするわけです。
その環境に慣れたせいか、自分も優れているものをとにかく学ぶように変わりました。
もっと言うと学ぶ人を選ばなくなりました。
チャンピオンから学ぼうというより、ノウハウを持っている人なら誰からでも学ぶ。
優れた実績を持っている人から学んだ方が納得はできるとは思いますが、
必ずしも優れたノウハウを教えられるとは限りません。
羽生結弦選手を教えているコーチは、羽生結弦よりすごい実績を持っているわけではありません。
優れた能力を持っていて、そのノウハウを教えられるという人は
意外とそこら中にいます。
学ぶ意識さえあれば、誰でも天才になれるのかもしれません。
世の中で天才と言われる人たちには流派があります。
北辰一刀流とかそういったものです。
真新しいこと、奇抜なことをしているように見えても
何故そうなったのかという流れがあって、
人々はそのストーリーに魅了されます。
適当に人と違うことをやっているのとは違います。
イチロー選手の振り子打法だったり、野茂英雄選手のトルネード投法であったり、
奇抜であっても成功するためのノウハウがそこに詰まっているのです。
アメリカの解説者がイチロー選手が内野安打を打った後、すかさず二塁へ盗塁したのを見て
「イチローしてる」と表現したのがまさに流派のことを指していたと思います。
イチローという名詞を動詞として活用できる、それが天才の持っている流派だと考えています。
絵画や音楽などはその流派を感じやすいと思います。
誰々に似ているとか、誰もが一度は感じたことがあるのではないでしょうか。
天才には物事を習得するに至る流れというのがあって、
自分のスタイルを確立したからこそ、魅力的なのでしょう。
才能だとか天才がとか言ってる時点で発想が貧しい感じはしますが、
物事を習得するために助けになる意識の話でした。
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